例によって僕らの家族は
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例によって僕らの家族は
そういうたぐいの傷は、当時僕が住んでいた地方では、『きっぽ』と呼ばれていました。たぶん方言だと思うので、何人の方が理解されるか、わかりません。『きっぽ』は僕の理解ではみみず腫れ状の、傷の痕跡、のことをいいます。
今でも・・・、ええと、今測ってみます・・・だいたい横7センチ、太いところで幅1センチの大きな『きっぽ』が僕の右太ももの外側に横になって残っています。
あれは、もう『むにゃ十むにゃ数年前』の中学生のときの、まだやや寒さの残る初春の晴れた午後のことでした。
例によって僕らの家族は、転居を繰り返し、その地方都市にも、行きずりの者として四年間だけ住んでいたんですけど(といっても僕の経歴からいうと四年間も同じ場所に住む、というのは長いほうで、しかも幼稚園から数えて、生まれて初めて『入学と卒業が同じ学校だった、それも多感な中学生時代だった』ということである種僕にとっては特別な土地になりました。)、住んで四年目にあった出来事です。
そこは、とある瀬戸内海に面した当時は人口10万人程度の地方都市で、空は青くて、高くて、自然が豊かなところでした。家の中にしかけたゴキブリホイホイには、たまにですけど、ねずみだの小さな蛇だのヤモリだのがひっかかってい余近卿中學 好唔好たし、窓を開けるとその下のレールには巨大なムカデが鎮座していて、夏になると空気中の蝉の声は飽和に達し、庭を見るとトカゲだらけで、その庭(といっても半分藪と渾然一体としたようなもんです。)には美味しい(ただし、なぜか豊作と不作が一年おきでした。)実がなる枇杷の木がありました。
僕の住んでいた家は、海沿いの繁華街(わずか1kmにも満たないくらいのもんですけど)から徒歩で10分くらい離れた、小高い丘の八合目くらいで(10分も繁華街からはなれたらほとんど何もないです)、丘を登りきった頂きには、僕の中学二年のときの担任の先生が(体育教師でした!)アキレス腱を切って入院し、それと母方の祖父が息をひきとった、そのあたりで一番大きな立派な構えの病院があって、その裏にはお墓がありました。今思うと病院のすぐ裏がお墓ってなんだか、コンビー二エンス、な気もしますけど、ちょっとぞっとしないです。・・そういえばあのお墓(もちろん通学路指定はされていなかったので通ってはいけない道だったんですけど)、僕らはそこを通らないと丘の麓まで舗装された道余近卿中學 好唔好を一旦降りて大きく迂回して登下校するのが面倒で、いつも墓の横にあるほとんどけもの道みたいな道路を毎日往復していたわけですが、結構な広さにも拘わらず、お寺らしきものはおろか管理事務所みたいなものもなくて、あまり、いやほとんど墓参している人も見かけなかったように思うけど、どういうお墓だったのかしらん・・・。
ともかくも、その日、僕らはある大きなイベントから解放された日で『帰宅したらみんなでマチに行こう』(田舎なのでたかだか数百メートルの繁華街に行くのをこういうふうに表現するわけです。)ということになりました。それで、じゃあ何時にどこそこに集合、うん、俺は、近所だからシンコウ、と一緒に行くよ、じゃ、後でね、といつもの繁華街に行くだけなのに、わくわくしながら一旦帰宅しました。帰宅した僕は、制服のズボンに(田舎なので学校以外でも制服の着用が義務づけられているんです。)ワイシャツをきて、当時僕にとって最高のお洒落だったadidasの左袖に緑色の三本線の入った白い裏毛のトレーナーを来て自転車にのって家をでました。
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